インタビュー
1ヶ月前

誰しも立ち止まり、 迷い、 そして踏み出した人生の瞬間がある。 医師の原点や転換点にフォーカスするインタビュー企画 「Doctor’s Career」。 今回は、 順天堂大学医学部附属浦安病院・泌尿器科教授の辻村晃先生に話を聞いた。 (全2回の第1回)
「子どもの頃から『働くこと=医師』という印象を持って育ちました。 他の職業は考えたことがありません」
父が内科医として自宅で開業し、 兄2人も医師という家庭で育った。 医師を目指したのはごくごく自然なことだった。
「小さい頃から父が診療する姿を見て、 『お父さんのような医者になりたい』と思っていました」

大阪で育ち、 兵庫医科大学に進学。 文武両道の学生時代を送ったが、 一番の思い出はサッカー部。 小学生の時からサッカーを始め、 中学時代には大阪市大会で優勝するほどだった。
当時は卒業と同時に専門科を決めていた。 6年生の段階で、 整形外科・脳外科・泌尿器科で悩み、 泌尿器科を選んだ。

「自分の性格から、 手術をして治せる外科系の方が合っているなと感じていました。 自分の出番が早くなると考え、 外科系の中でもマイナーな科を選びました」
泌尿器科を選択した理由がもう一つある。
「学生時代に腎臓移植手術を見て、 率直にかっこいいなと。 (泌尿器科は) マイナーだけど、 医療はダイナミックで魅力があると感動しました」
大学卒業後、 大阪大学の医局に入局。 研修医として2年間勤務した後、 国立病院機構大阪医療センターで6年間、 臨床医として診療を重ねた。

やがて 「研究にも挑戦したい」 と感じるようになった。 学会発表を聞いても、 研究の背景や意義が十分に理解できないもどかしさがあったからだ。
その当時 (1996年頃)、 分子生物学が流行しており、 遺伝子研究が増えていく時代だった。
「当時の大阪大学泌尿器科学教室の奥山明彦教授(現・名誉教授)の専門であり、 日本を代表するような研究成果を上げている研究チームを実際に見ているうちに、 自分も先進的な研究をしてみたいという気持ちが強まりました」
研究テーマは自然に 「アンドロロジー」 (男性学) になった。 その中でも、 「精子が卵に結合する際に必要な遺伝子を見つける」 というテーマで研究をスタートした。

「8年間臨床の仕事をすれば、 通常、 接する機会が多いのはがん患者。 がんの研究を志す人が多かったんです。 ただ、 自分はちょっと人と違った研究をしてみたいという気持ちもありました。 その方が研究成果を世の中に公表できるのが早いのではないかと考えたからです」
「発がんに関する遺伝子を見つけるのも、 生殖に関する遺伝子を見つけるのも、 見つける相手が違うだけでやり方や考え方は一緒だろうと思いました」
大阪大学泌尿器科と大阪国際がんセンターの研究室で1年間、 生殖関連の遺伝子解析に携わり、 留学の準備を始めた。 「若い時に米国留学したい」 と以前から考えていたからだ。
1998年にニューヨーク大学に留学。 アンドロロジーの中でも前立腺細胞の研究に取り組むことになった。
「ニューヨークは人種のるつぼ。 異文化交流の日々です」

セルバイオロジー (細胞生物学) の研究室は、 アジアやヨーロッパなど世界各国から100人くらいの研究者が集まっていた。 各国の研究者たちと話をして多くのことを吸収した。
南アフリカ出身の上司の部屋に毎日立ち寄り、 研究内容を共有する習慣も身につけた。
「留学先では引っ込み思案では成果が出ません。 積極的に会話し、 英語力も含めて研究内容を充実させて関係性を築くことが鉄則ですね」
上司や他の研究者たちとは、 帰国してからも日本に招いたり、 ニューヨークの研究室を訪れたりして、 交流が続いている。

留学中は生活にも大きな変化があった。
「日本では患者さんを診察してから研究していたので、 夜中12時までに帰ることはほとんどなかったです。 ところが、 ニューヨークでは研究だけに集中できたので、 時間的余裕のある生活が新鮮でした」
妻と一緒にマンハッタンで生活していた。 夜8時まで明るい夏のニューヨークでは、 仕事後に街歩きを楽しむ時間もあった。

渡米して2年。 ニューヨーク大学での研究も論文の形になり、 実績にもなった。 留学生活を延長する医師も多いが、 2年での帰国を選択した。
「臨床を長く離れると、 手術の勘が鈍ったり、 時代の流れに乗り遅れてしまったりするかもしれないという恐怖心がありました。 留学は2年間と決めていました」


編集・作図:編集部、 監修:所属専門医師。各領域の第一線の専門医が複数在籍。最新トピックに関する独自記事を配信中。
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