寄稿ライター
4ヶ月前
医療訴訟が珍しくなくなった今、 医師は法律と無関係ではいられない。 連載 「臨床医が知っておくべき法律問題」 7回目のテーマは 「輸血拒否の患者、 どうする?」
一部の例外を除き、 輸血拒否は 「エホバの証人」 の患者がほとんどであろう。 エホバの証人関連の訴訟事件は、 宗教上あるいは輸血拒否に関しての自己決定権を裁判所が保護する傾向が長く続いていた。
古くは大分地裁昭和60年12月2日決定がある。 骨肉腫で患肢切断に輸血が必要なのに、 エホバ信者の患者が拒否しているためできず、 病院側が裁判所に輸血をさせる仮処分を申し立てたが、 裁判所は成人が信仰上の理由で拒否しているのを裁判所も強制できないとして排斥している。
医師の皆さんによく知られているのが、 最高裁判所第3小法廷判決 (平成12年2月29日) であろう。 肝臓肉腫の患者が、 「無輸血手術をしている」 とのことで転院してきた病院で手術を受けたが、 術中に出血が多くなったために緊急的に輸血を受けた事案である。
最高裁は、 「他に救命手段がない事態に至った場合に輸血する場合があることについて、 医師が説明せず、 手術をして輸血をしたこと」 を違法としている。 無輸血を期待して転院をしてきた事情や、 医師は輸血した事実を隠していたが、 看護師がマスコミにリークして発覚した事情などがあるようである。
なお、 一審の東京地裁は、 命を賭した無輸血手術の約束は無効としている。 最高裁の論旨で注意すべきは、 輸血が宗教上禁止されているので実施すべきでないというより、 「実施する可能性があることを説明しておけ」 というもの。 待機的手術であった本件事案に限っての判断であると言える。
最高裁判決を受け、 厚生労働省が輸血の保険給付の要件として同意書を要求するようになった。 HIV・肝炎ウイルスなど感染症の問題から、 輸血が侵襲行為として捉えられるようになり、 緊急性がない場合には自己決定権の行使としてやむを得ないことであろう。 特にエホバの信者は免責証書を用意しているので、 紛れが少ない。
最近では、 患者の救急受け入れをしている病院であれば、 ホームページなどに輸血を行うかどうかのガイドラインを表示しているケースが多い。 死んでも輸血を行わない 「絶対的無輸血」、 生命に関わる場合には輸血をする 「相対的無輸血」 を採用しているかなどの内容だ。
エホバの証人側は、 そういった情報を入手しており、 絶対的無輸血としている医療機関に搬送を希望する場合もあるようである。
絶対的無輸血としているガイドラインがあっても、 15歳未満は必要に応じて輸血する医療機関が多い。 最近では、 信者の子供が二世信者として、 自らの意思でなく、 信仰を強制され、 教義に基づく虐体的なしつけや、 生活・学業などでの不利益を受けていることの救済を求めることも出てきている。 ジャニーズの性加害問題など、 これまでタブーとされていた領域が議論されるようになってきているが、 信教の自由の問題も同様の傾向がみられる。
輸血拒否だからといって、 手をこまねいているわけではないが、 本来なら輸血で救命できた命を輸血しないまま失ってしまった場合、 医師に保護責任者遺棄致死罪 (刑法219条) が成立する余地はある。 重罪であり最大20年の懲役刑となる可能性もある。
真摯な拒否が証明できるようなケースは被害者の同意で免責されるであろうが、 「家族が言っているだけ」 では免責されない可能性もある。 自殺関与罪 (刑法202条) は本人が真摯に死を希望しても、 関与した医師は重罰を受ける。 微妙なケースは思い切って輸血するのが自衛としては正しい。
宗教というのは、 国家と結びつくことをわが国では憲法上も禁止されている (憲法20条、 89条)。 しかし、 わが国はもとより、 ドイツなどの先進国でも宗教団体の強力な支援下にある政党はあるし、 米国でもキリスト教上の教義に関連した問題 (中絶など) が政治上の争点になっていることはご存じであろう。 世俗と宗教上の考えは、 そう簡単に分離できるものでもないのだろう。
このような現状で、 日本を含めて先進国で医療に携わる者は、 生命という、 いわば、 絶対的な存在を至高と捉える立場を取っている。 これは一種の宗教といえるのか、 あるいは宗教を超越した、 生命体である人間にとっての絶対的真理であるのか、 哲学的な問題が横たわっているといえよう。
編集・作図:編集部、 監修:所属専門医師。各領域の第一線の専門医が複数在籍。最新トピックに関する独自記事を配信中。
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