インタビュー
8時間前

誰しも立ち止まり、 迷い、 そして踏み出した人生の瞬間がある。 医師の原点や転換点にフォーカスするインタビュー企画 「Doctor’s Career」。 今回は、 大阪府済生会茨木病院 内科系診療部長 兼 ICU部長の金村仁先生に話を聞いた。 (全3回の第2回)
>>第1回はコチラ。
大阪府済生会中津病院での初期研修を終える頃、 外科的手術よりも内視鏡治療の方に興味を持つようになった。
「父のクリニックには内視鏡設備があったこともあり、 消化器内科において内視鏡をしっかり身につける必要があると考えました」

そう決めた時、 進むべき道は明確になり、 医師としての意識も大きく変わった。

医師4年目で、 大阪府済生会茨木病院へ移った。 きっかけは、 中津病院で一緒に働いていた先輩医師からの熱心な誘いだった。
「この先輩がいるなら大丈夫だと思い、 飛び込んでいった感覚でした」
当時の副院長の存在も大きかった。 温かく、 腰の低い人柄に触れ、 この病院で働きたいと思ったという。
その副院長は現病院長の立田浩医師。 18年間にわたって同じ病院で働き続けている。 医師としてだけでなく、 人として信頼できる存在との出会いが、 自身のキャリアを支える土台になった。

若い頃は失敗の連続だったという。 外来診療を終えた後も、 もっと別の選択があったのではないかと考え続けた。
「『あの薬を出せばよかった』『あの検査をしていればよかった』と、 いつも反省していました。 でも、 そうした積み重ねが今につながっているのだと思います」

研修医時代の苦い経験も、 今なお忘れられない。 指導医が不在の日、 必要な指示はすべて終え、 患者の状態も安定していたため帰宅した。 ところが、 その後に緊急手術が2件入り、 自分だけが病院にいなかったことで強く叱責された。
「今思えば、 もっと慎重であるべきでした」
命を預かる現場では、 一つひとつの判断が患者の生死に関わることもある。 キャリアを重ねるほど、 その重みを実感するようになった。
「判断には神経を尖らせるようになりました。 ただ、 医療は思い切りも必要で、 そのバランスは今でも難しいと感じます」

印象深い患者の一人に、 肝硬変を患っていた50代の女性がいる。 約6年間、 通院と入院を繰り返しながら診療を続けた。
「お酒を控えるように伝えても、 なかなかやめられず、 仕事を続けながら通院されていました。 いつも同年代の男性と一緒に来ていました」
やがて肝機能は限界を迎え、 できる限りの治療を行った上で大学病院へ転送した。 しかし最期は茨木病院に戻り、 そこで亡くなった。
「付き添っていた男性は、 最期まで寄り添っていました。 いつも私に感謝の言葉をかけてくれていました」

死亡診断書を書いた翌日、 その男性が病院を訪れ、 「名前が間違っています」 と伝えた。 確認すると、 二人は女性の闘病の最中に入籍していた。
「その後も男性は時々受診に来てくださり、 今も感謝の言葉をいただきます。 医師として、 もっとできたことがあったのではと思ったこともありますが、 当時できることはやり切ったと思っています」
死亡診断書を書き直したのは、 医師人生でその一度きり。 医師と患者という関係を超え、 心に深く刻まれた出会いだった。


編集・作図:編集部、 監修:所属専門医師。各領域の第一線の専門医が複数在籍。最新トピックに関する独自記事を配信中。
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